【レコードとわたし】ゴダイゴ - CMソング・グラフィティ

‘78年オリジナル。新宿HMVレコードショップにて。これも110円。

ジンタやってた頃に突如自分の中に到来したゴダイゴブームでCDを買ったのが最初。

軽い気持ちで買ったんだけど、次から次に溢れ出てくる美メロに腰抜かした。10年選手のシングル集くらいのクオリティだと思う。それを短期間のリリースをまとめただけでこれ。改めて聴いてもすごい。

ゴダイゴとわたし、ハイスクール編。

僕が通ってた高校は校歌が英語だって事でちょっと有名だった。僕が入学する前、夕焼けニャンニャンに高校対抗で母校の自慢合戦をするコーナーがあって、在学生が出て校歌をネタにしていたのだ。

僕はその回の夕ニャンは見てなかったんだけど、当時僕がその高校を志望してるのはクラスでなぜか話題になってて、すごいとかそういうんでなくて、さすが酔狂なやつだなみたいな感じだったんだけど、まあそんなわけでみんな僕に教えてくれたわけだ。

おいK、あの高校、校歌が英語でタケカワユキヒデ作曲らしいぜ(ちなみに作詞は奈良橋陽子ゴダイゴそのまんまなんだけど、中学生はそこまで世間を知ってたわけではなかった)。

で、果たしてめでたく合格したんだけど、入ってみればまあみんな校歌を歌わない。歌詞も覚えないし。僕は好きでちゃんと歌ってたけど、まあそんな校歌がおざなりな雰囲気も我が母校って感じだ。

母校はいわゆるミッション系ってやつなので、毎年春頃にクリスチャンウィークというのがある。その間はキリスト教キャンペーンみたいなもんで、色々とイベントがあった。

僕が入学した’86年は、スティーヴ・フォックスの講演会だった。当時ミュージシャンをやめて牧師になってたので、演奏はなく、自分の生い立ちと、名声を捨てて牧師になったことなど話してくれた。元々不良だったそうで、だからか、私語をやめない生徒を一喝して睨みつけた瞬間は、すげー迫力だった。あれはよく覚えてる。

クリスチャンウィークは毎年体育館でライブイベントがあったんだけど、’87年か’88年か忘れたけど、その年のライブにはなんと、ヘッドハンターズでお馴染みポール・ジャクソンが来ることになった。

ポール・ジャクソンは当時日本在住で(船橋だったか市川だったか)、Jazz For Kids ってイベントを各地でやってて、ジャズの歴史を実際の演奏で子供達に伝えるという活動をしていて、その一環でうちの高校にも来ることになったのだ。

ポール・ジャクソンの奥さんは日本人で、かつてアメリカの日本人学校の先生をしてて、うちの在学生の中でも実際に彼女の元生徒がいたりして、そんなつながりで来てくれたんじゃないかな。

で、その時のバンドのキーボードがミッキー吉野だった。

中庭とか墓石(ってあだ名の石碑があるのよ)とかの普段の風景の中を、ミッキーが歩いてくるのがベランダから見えて(ってことは1階じゃないから2年生、’87年か)、すっげー興奮したなあれは。

だって、いつもの学食でお茶してるんだよ、ミッキーとポール・ジャクソンが。でかかったなあポール・ジャクソン

ライブはアフリカンビートからラグタイム風、バップとジャズの歴史を辿るという趣向で、とても素晴らしいものだった。

そしてジャズ史の旅がフリージャズにさしかかったんだけど、それがもうすごくて、高校生には強烈なインパクトだった。

鳥肌が立って、顔が緩んでるのがわかった。立ちすくんでるうちに、あっという間に終わってしまった。多分1分くらいしか演奏してなかったのではないか。

こんな音楽があったもんかと、まあ知ってはいたけど、生で聴くそれはちょっと言葉にできないものを残してくれた。

思えばあの時の衝撃と、その衝撃をすんなり受容できた経験があったから、松谷さんと一緒にバンドが出来たのかも知れないなあ。マーブルシープそのものだけでなくて、あの頃のあのシーン全体のあの空気が、すごく自分にしっくりきてた。

だからミッキー吉野は僕の音楽人生の転換点になった、重要なミュージシャンなのだ。なんかいろいろ思い出して、そういう事になった。

長い人生の短い3年間に、タケカワ作曲の校歌を歌ってスティーヴの講演を聞いてミッキーの音を浴びたという、ゴダイゴ漬けな高校生活だったわけだ。

なんて今こうして書いてるけど、その事に気がついたのは卒業してしばらくしてからだった。真っ只中にいる時は、淡々と校内行事に参加してるだけだった。

ああもったいなかった。もっとありがたいという意識でもって臨むべきだった。

ピース。

(2023-10-08)